わたしからあなたへ

「ブログかけ!」というお言葉を頂きましたので、恐れ多くも挑戦中です。私に起きた不思議な物語の第1章を無事書き終える事が出来ました。しかし不思議な流れは力強く私を運び続けています。「あなた」が目に映る世界が苦しいと感じるのであれば、その心を「ほんの少し温める」一助になれば幸いです。泣いて笑って共に世界を味わいましょう。

第2章 ちょっぴり早いプロローグ(5) 結

「歩きながら考えよう」

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 「1895m」byS

 

前回の物語↓

 

sintamsc.hatenablog.com

 

 天河神社 禊殿で言葉を受け取った後も、

 

私達はさほど数は多くはないものの、

 

行く必要性を感じる全国の神社を巡った。

 

その過程において、

 

やはり不思議としか言いようのない、

 

後押しを受けた旅路は多くあった。

 

 

私達は神社にさほど詳しくない。

 

間違いなく素人の域だろう。

 

ほとんど調べずにゆく事も多い。

 

移動の最中にどんな神社かを調べたりする始末だ。

 

しかし、だいたいにおいて、

 

足を運んだ先には、

 

私達にご縁を下さる、

 

神様が祀られている事は事実だ。

 

私達は神社や作法の知識を増やす事にあまり関心がない。

 

せっかく、

 

遠路はるばる行ったのに、

 

神社に精通する方が、

 

「ここに行くべし」

 

という場所も平気で素通りする事も多い。

 

私達が何故これほど神社に足を運ぶ本当の理由は、

 

正直なところ私はあまり分かっていない。

 

ただ、

 

実際にその場に足を運び、

 

「その場に立つ」

 

という事が大切な気がするのだ。

 

その土地の空気を吸い込み、

 

その場に鎮まる「何か」と出会い、

 

私達には分からない、

 

感応を受けているのかもしれない。

 

 

私が禊殿で分御霊を頂いていると言われた神様。

 

あまり多くの場所で、

 

祀られていないという事であったが、

 

行く先にご祭神として祀られている事があった。

 

また、

 

その神様の名前に使われている一字と、

 

「これでもか」と出会う旅でもあった。

 

正直に言うと、

 

私は「分け御霊」という意味すら知らなかった。

 

その後調べてみたが、

 

多分本当の理解に至っていない。

 

しかし、私なりのいい加減な解釈は、

 

次の通りだ。

(参考にしないように)

 

 

私達人間はもともと神様から生まれた。

 

人間には、

 

その神様と「同種の質」分けられている

 

それが、「分け御霊」。

 

つまり、神様は私達の中にいる。

 

人間が多様な様に、

 

神様も多様だ。

 

全ての人間の中に神様は居て、

 

その人、その人に、

 

ご縁のある神様がいるのだろう。

 

 

それは、

 

それでとても良い考えだ。

 

それはつまり、

 

自分を

 

他者を、

 

大切にする事が、

 

神様を大切にする事だからだ。

 

 

2018年は旅を多く続けたが、

 

私達の人生の流れを変えた、

 

「天河神社」

 

その奥宮にまだご挨拶に行けてない事に、

 

私達は胸を痛めていた。

 

弥山 (奈良県) - Wikipedia

弥山(みせん)は、奈良県吉野郡天川村にある大峰山脈の山。標高1895m。

 

その天河神社の奥宮は、「弥山神社」と呼ばれる。

 

1895mの山頂にあるので、

 

登山の経験もない素人には、

 

気軽に行ける場所ではなく、

 

ある程度の決意は必要だった。

 

 

その弥山神社に、

 

2019年5月。

 

私達はようやく出発する事になった。

 

 

第2章 ちょっぴり早いプロローグ(5) 結

 

 

前回の物語を読む方は↓

第2章 ちょっぴり早いプロローグ(4) 完 - わたしからあなたへ

 

物語の続きを読む方は↓

天河神社奥宮 弥山の旅(1) - わたしからあなたへ

 

 「トリニティからあなたへ」

《受け取るものたちについて〜さらに》

 

その前に、ひとつ、

 

住吉大社の記事についての補足を。

 

前回の「あなたへ」で、

 

「住吉さんと仲直りしよう」

 

という表現をしましたが、

 

勿論神さまとケンカをしていた訳ではなく(笑)

 

これはあくまで

 

「親に怒られている」

 

と勝手に思い込んでた幼子が親に向かって

 

「仲直りしてよぅ」

 

とお願いしに行く‥‥

 

ようなニュアンスで書かせていただいたものです。

 

汲んで頂ければ幸いです。

 

 

さて、

 

大事なことを、書けてませんでした。


わたしは、そのような【受け取る事】


良いこと、よろこばしいこと、とは

思っていません。

 

(「受け取ってる気になっているだけかもしれない」ことも含めて)

 

わたしがあらゆる面において未熟なために、そう思えないのです。

 


前回も書きましたが、

 

それがわかることで、

 

自分の心地が良かった事はほとんどない、からです。


むしろ、いつも、不安の原因であり、

 

また、それを駆使し、なにかをなした後も、

 

後味の悪いことの方が多く、

 

こころはしおれて行くばかりで・・・。


わたしは考えます。

 

もし、この感覚がなければ、

 

わたしは、

トリニティはパトロールをしなかったのかな。


この感覚があるから、

 

パトロールをしなくちゃ!~と思ったのかな。

 

トリニティ物語④ - わたしからあなたへ

世界はありとあらゆる危機に溢れていて、神経を休ませれる暇はありません(笑)

 「ほっといたら、ええやん」 きっとそう思われるでしょう。

でも、それをしなければ、花瓶は必ず割れ、母親は更に怒りを増し、

結果、もっとイヤな思いをするのです。わたしだけでなく、まわりのみんなが。

 それが本当にイヤで、避けたくて、ウルトラマントリニティは、

毎日パトロールをし続けていたわけです。

 

いや、ちがう。


そうじゃあ、ない。

 

パトロールは、わたしの質、です。

 

性質です。

 

この感覚がなくても、していたはずです。

 

ただし、


人の気持ちなど、ロクにわからず、

 

トンチンカンだったかもしれません。

 

人の役に立つどころか、


人のなにかをかき乱すだけだったかもしれません。

 

それでも、わからないなりに、


一生懸命、やった


と、思うのです。

 

その時、悔し涙を流していたでしょう。


「わたしは、なんで、

 うまく出来ないんだ。

 なんて、力不足なんだ」

 

て。

 

でも。

 

きっと。

 

それを、

見てくれるあたたかい存在

 

に、出会えたような気がします。

 

この感覚がないわたしなら、出会えていたと思うのです。わたしの在り方が違っていたはずだから。


保証なんて、ありません。

 

ただ。そう、思うだけです。

 

・・・


いまのわたしは、

 

いつもどこかで、

 

わたしはひとりだ。

 

わたしには、帰る場所などない。

 

そう、思っています。


世界の全ては、敵

 

という、かつての意識が、消え切らなく

 

世界の幸せに、

わたしの場所はない

 

という、

依怙地な想いだけが、こだましています。

 

もちろん、わたしは、

 

人から見たら充分にしあわせな人間だと思います。

 

仲の良い友人からも


「上を見るな〜、

 下を見て生きろ〜(笑)」


と言われたりします。


「子どもがいるだけ、

 しあわせやないか」

 

とのお言葉です。

 


そうだと思います。

 

それはわかっています。

 

わたしは、贅沢なのでしょう。

 


それでも、わたしには、

 

この世に生まれて、一番欲しいもの、

 

味わいたいもの、手に入れたいもの、は

 

ハッキリと、ハッキリと、あって、

 

それはいまだ手には、入れられておらず。


その

「人には理解してもらえなくても、

 自分にとっては

 何よりも大事なもの」

 

を持てない苦しみは、

 

なかなか他の人には共感しにくいものと思います。

 


なぜなら、その対象は

 

人、それぞれ、

 

だからです。

 

話を戻します。

 


そんな、

 

わたしがこころの底から欲しくてたまらないものは、

 

わたしのこのようなチカラ(感覚)があっても、


手に入れる事は出来なかったので、


その観点からも、

 

わたしには、このチカラ

(という表現も好みませんが、

 他に適切な言葉が思い浮かばなくて‥)

 

が良いもの、という認識は、ありません。

 

なので、

このように未熟なわたしにとっては


そんなものを持つより


まっとうに、生きて

 

一生懸命、生きて

 

合っていても、間違っていても、

 

それを、まるっ、と受けとめ、受け入れ、

 

愛してくれる存在に、守られる。

 

だいじにされる。

 

そして、その存在と、

 

手と手を、こころとこころを

 

取り合って、生きる。


そんな人のすがたを視界にとどめ、

 

「今日は、良い一日だった。

 

 それが、

 

 嬉しいことが起きた日でも

 

 つらいことが起きた日でも。」

 

と、

 

次の日を生きることを、また

 

安心のもと、楽しみのなか、想いながら

 

眠りにつき

 

そして、つぎの日を

 

「今日という日は、

 

 どんな日なのだろう」

 

と、よろこびをもって、迎えれる‥‥

 

そんな、生き方を、

 

持てることの方が、

 

このチカラを持ちながらも、

 

ひとりぼっちで生きることには、

 

くらべることが、できないほどに


素晴らしいものだ、と


わたしには、思えるのです。

 


‥‥デジャヴ、のようですよね?(笑)

 

ええ、


これに、そっくりな、想いが、

 

このブログには、2度、出ています。