わたしからあなたへ

「ブログかけ!」というお言葉を頂きましたので、恐れ多くも挑戦中です。私に起きた不思議な物語の第1章を無事書き終える事が出来ました。しかし不思議な流れは力強く私を運び続けています。「あなた」が目に映る世界が苦しいと感じるのであれば、その心を「ほんの少し温める」一助になれば幸いです。泣いて笑って共に世界を味わいましょう。

臨済録③

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 「臨済義玄」by曾我蛇足

  

 

入矢義孝訳注 岩波文庫

臨済録 行録より引用 現代語訳

 

師は初め黄檗の門下であったが、

その修行態度はひたむきな純粋さであった。

これを見た首座は

 「この人はまだ歳若いが、他の者とは違ったところがある」

 と感嘆して、ある時、問うた、

 「そなたはここに来てどのくらいになるか。」

 師「3年になります。」

 首座「これまでに和尚に参じたことがあるか。」

 師「いえ、まだいたしません。

 いったい何を問うべきかもわかりません。」

 首座「そなた、なぜ和尚のもとに行って

 仏法の根本義はどういうものですかと問わないのだ。」

 そこで師は行って、問うた。

 だが、まだその声も終わらぬうちに、黄檗は棒で打った。

 師が戻ってくると、首座は、問うた「問答はどんな具合だったか。」

 師「私の質問の終わるか終わらないうちに和尚に打たれましたが、私にはわかりません。」

 首座「もう一度行って問うてみよ。」

 師はまた行って問うと、また黄檗は打った。

 こうして三度問うて、三度打たれた。ついに師は首座に願い出た、

「かたじけなくもお心にかけていただき、和尚に参問させて下さいましたが、三度問うて、三度打たれました。残念ながら因縁が熟さないために、その奥義を悟る事ができません。しばらくお暇をいただきます。」

 首座「そうか。出かける前に必ず和尚に暇乞いをして行きなさい。」

 師が礼拝して退くと、首座は一足先に黄檗のところに行って告げた、

「先ほど参問に来た若者はなかなかまともです。もし暇乞いに来ましたらどうかよろしくお導き下さい。将来きっと鍛えあげて一株の大樹となり、天下の人々のために涼しい木陰を 作るでありましょう。」

師が暇乞い行くと、黄檗は言った、

「そなたはよそへ行くことはならぬ、高安灘頭の大愚のところへ行くがよい。きっとそなたに説いてくれるだろう。」

 

臨済。

 

この物語の直後に、臨済に目覚めが起こります。

 

つまり悟るという事でしょう。

 

その悟った後の臨済は、

 

「臨済将軍」と呼ばれるほど、

 

激しい男に変容します(笑)

 

悟った後の臨済の言葉は、

 

何事も頼らず、

 

迷いもなく、

 

怖いものなしの、

 

独立心の極みの、

 

めちゃくちゃハードで、

 

ぶっちぎりの自由さを湛えています。

 

 

しかし、

 

師は初め黄檗の門下であったが、

その修行態度はひたむきな純粋さであった。

 

とあるように、

 

目覚めが起こる前の臨済は、

 

リーダーから目をつけられるほど、

 

実直で純粋な修行僧だった様です。

 

どう考えても、

 

目覚めのビフォーアフターの臨済の発する言葉は、

 

とても同一人物とは思えない程の変貌ぶりです(笑)

 

 

さて、さて、

 

臨済は20歳で出家し、

 

当初仏教の経典など様々な知識を勉強した様です。

 

しかし、知識の習得は

 

「世渡りの道具に過ぎない」

 

とさとり、実践の禅宗に転向しました。

 

黄檗希運に師事。

 

そこで、3年間、坐禅の修行にひたすら励みました。

 

修行僧のリーダである首座は、

 

他の修行僧と比べ、

 

その修行に対してのひたむきな純粋さに目を止め、

 

臨済と黄檗師匠と引き合わせようと考えました。

 

これを見た首座は

 「この人はまだ歳若いが、他の者とは違ったところがある」

 と感嘆して、ある時、問うた、

 「そなたはここに来てどのくらいになるか。」

 師「3年になります。」

 首座「これまでに和尚に参じたことがあるか。」

 師「いえ、まだいたしません。

 いったい何を問うべきかもわかりません。」

 首座「そなた、なぜ和尚のもとに行って

 仏法の根本義はどういうものですかと問わないのだ。」

 

私が臨済に感動するのは、

 

その真理に対する誠実さです。

 

臨済はもうすでに、

 

あらゆる仏教の真理を学んでいたはずです。

 

 首座「これまでに和尚に参じたことがあるか。」

 師「いえ、まだいたしません。

 いったい何を問うべきかもわかりません。」   

 

しかし、臨済は

 

「何を問うべきかもわかりません」

 

と答えるのです。

 

知識としての真理については、

 

いくらでも言えたでしょう。

 

しかし、

 

臨済は真に真理を体験する以外は、

 

その様な問答に意味を見出さなかったのでしょう。

 

だからこそ、

 

「わからない」

 

と答えた。

 

その臨済の真理に対する誠実さに、

 

私は美しさを感じてしまいます。

 

だって、今も昔も、

 

分かった事を言う様な奴らばっかりだったのでしょう(笑)

 

そんな誠実な返答をする臨済に対して首座は、

 

ますますタマラナイ気持ちになった事でしょう(笑)

 

しかも3年も修行をして、

 

師である黄檗に仏法について、

 

質問すらしていないのです!!

 

 

私が臨済の気持ちに共感できるのは、

 

私も師匠から公案を与えられているからです。

 

公案とは?

禅宗において雲水が修行するための課題として、老師(師匠) から与えられる問題である。

 

それは「無」についての公案です。

 

 

私は「無」を目の前にした時、

 

もう何一つ身動きが出来なくなります。

 

概念としては、

 

求められてる事も分かる様な気もしているのです。

 

その様な求められる表現をする事は可能なのです。

 

 

しかし、本当に本当に「無」について向き合った時、

 

私には「無」に対する表現がすべてが作為として感じ、

 

ただ座る以外に何も出来なくなるのです。

 

 

私が「無」になる以外に道はない・・・。

 

しかし、それもいつまで経っても出来ぬ。

 

 

私は「無」の公案について、想いを巡らせていた時、

 

臨済の「何を問うべき事も分からない」という言葉に、

 

とても感激しました。

 

 

私の100万倍は仏法の真髄を学んでいる臨済が、

 

「わからない」

 

と答えるその誠実さに。

 

 

つづく