わたしからあなたへ

人生は不思議な事で満ちています。運命の出会いと別れを経て2017年11月20日に「ブログかけ!」というお言葉を頂きました。その不思議な物語の第一章を書き終えましたが、不思議な流れは更に力強さを増して、ようやくわたしは真を生きる事を決心しました。わたしもあなたも生きる事を味わい尽くし、善き旅路の果てで出逢いましょう。

臨済録④

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 「臨済義玄」by曾我蛇足

  

 

入矢義孝訳注 岩波文庫

臨済録 行録より引用 現代語訳

 

 

 そこで師は行って、問うた。

 だが、まだその声も終わらぬうちに、黄檗は棒で打った。

 師が戻ってくると、首座は、問うた「問答はどんな具合だったか。」

 師「私の質問の終わるか終わらないうちに和尚に打たれましたが、私にはわかりません。」

 首座「もう一度行って問うてみよ。」

 師はまた行って問うと、また黄檗は打った。

 こうして三度問うて、三度打たれた。ついに師は首座に願い出た、

「かたじけなくもお心にかけていただき、和尚に参問させて下さいましたが、三度問うて、三度打たれました。残念ながら因縁が熟さないために、その奥義を悟る事ができません。しばらくお暇をいただきます。」

 首座「そうか。出かける前に必ず和尚に暇乞いをして行きなさい。」

 師が礼拝して退くと、首座は一足先に黄檗のところに行って告げた、

「先ほど参問に来た若者はなかなかまともです。もし暇乞いに来ましたらどうかよろしくお導き下さい。将来きっと鍛えあげて一株の大樹となり、天下の人々のために涼しい木陰を 作るでありましょう。」

師が暇乞い行くと、黄檗は言った、

「そなたはよそへ行くことはならぬ、高安灘頭の大愚のところへ行くがよい。きっとそなたに説いてくれるだろう。」

 

3年近くも、ひたすら修行をして、

 

師の黄檗に何を質問したらいいかも分からない臨済。

 

でも、それは真理に対する誠実さ故なのです。

 

一切の妥協や意図を外して真理と対峙しているからだと思うのです。

 

質問など出来る訳ないのですから。

 

心が動いた瞬間もう負けです。

 

心が停まっていても負けですが。

 

きっともうどうしようもなかったのです。

 

 

しかし、修行僧のリーダである首座に促されて、

 

素直な臨済は、師の黄檗のもとにすぐに参問します。

 

 

首座にその様に言われたら、行くしかない・・・。

 

 

さて、師の黄檗との参問。

 

臨済が黄檗に仏法の神髄を尋ねるや否や、

 

黄檗師匠は臨済を棒で殴っちゃいます。

 

 

いいですか?

 

仏法の神髄を質問したら、

 

バシッと!

 

殴られちゃうんですよ(笑)

 

 

「仏法の神髄とは?」

 

バシッ(笑)

 

 

訳の分からぬ臨済。

 

何故私を叩くのでしょう!?

 

 

参問を終えた臨済に、興味津々の首座。

 

いやいや、真剣だったのでしょう。

 

臨済を深く愛していたのでしょう。

 

 

首座

「どうだったのだ?」

 

 師「私の質問の終わるか

  終わらないうちに和尚に

  打たれましたが、

  私にはわかりません。」

 

素直な臨済(笑)

 

 

首座

「もう一度行って来い!」

 

やっぱり、愛は止まりません(笑)

 

 

そして、

 

素直に従う臨済(笑)

 

 

そして、再び師の黄檗のもとに・・・

 

 

三度仏法の神髄を尋ねて、

 

師の黄檗に三度叩かれちゃう臨済。

 

 

あなたは何故、

 

黄檗が臨済を叩いたのだと思いますか?

 

 

私はその意図は分かる様な気がします。

 

あくまで知としての理解ですが。

 

 

黄檗の愛の鞭を理解できない臨済は、

 

ついに仏法の真髄が分からぬまま

 

探求への道を諦めようとします。

 

かたじけなくもお心にかけていただき、和尚に参問させて下さいましたが、三度問うて、三度打たれました。残念ながら因縁が熟さないために、その奥義を悟る事ができません。しばらくお暇をいただきます。」

 

首座に対する言葉も誠実さに満ちています。

 

首座の期待、心遣いに対して、

 

応えられない自分を臨済は悔しく無念に思った事でしょう。

 

私は何だか、気持ちが分かる様な気がします。

 

周囲の期待に応えられる事の出来ない悔しさ、

 

申し訳なさ、自分の未熟さ。

 

それを身に染みる程感じたのでしょう。

 

 

つづく