わたしからあなたへ

「ブログかけ!」というお言葉を頂きましたので、恐れ多くも挑戦中です。私に起きた不思議な物語の第1章を無事書き終える事が出来ました。しかし不思議な流れは力強く私を運び続けています。「あなた」が目に映る世界が苦しいと感じるのであれば、その心を「ほんの少し温める」一助になれば幸いです。泣いて笑って共に世界を味わいましょう。

混沌の日々②

「恐れ」

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 「ひかり」byaichan

 

恐れという気持ちをずっと抱いている気がします。

 

「恐れ」というフィルターを通して、

 

この世界を眺めますから、

 

世界は怖いものになって当然でしょう。

 

 

私は時折、

 

「どうしてこんなにも自分は恐れていたいのだろう?」

 

何に一つ良い事などないのに?

 

自分や世界を損なうものだけなのに?

 

そんな風に客観的に思う事があります。

 

 

そして、恐ろしい事は、

 

「恐れ」の尻尾を掴んで離さないのは、

 

自分自身という事にも気付いています。

 

 

物事が起きる前から、

 

確固たる事実がなくても、

 

まずは怖がろうとする自分がいます。

 

怯えようとする自分がいます。

 

それは何故でしょうか。

 

思うような結果、

 

願いが叶わなかった時のショックから、

 

早い段階で備えるためでしょうか?

 

未来の自分が耐えられるように、

 

現在の自分にそのストレスを与えて、

 

耐性をつけているつもりなのでしょうか?

 

ああ、なんて無益な。

 

それは「恐れ」を抱えたまま人生を終えるという事です。

 

 

 

 

私はそんな恐れの中にある時に、

 

鏡に映る自分の顔を見ると驚く事があります。

 

落ち着き払った顔。

 

どこに恐れがあるのか分からない、

 

強さえ浮かぶ顔つき。

 

その心と裏腹の表情のギャップに、

 

しばし混乱します。

 

どっちが本当なのだろうかと。

 

目に見えて表現されてるもの?

 

目に見えない隠されたもの?

 

 

漠然と恐れは意識のどこかに潜んでいます。

 

自我の構造として、

 

そうなっていると言えば簡単です。

 

自我というのは本来はない存在。

 

今には存在しない、過去や未来に伴う思考によって、

 

実態のない自我は形成される。

 

怖れや不安というエネルギーにより、

 

自我はより強固になってゆく。

 

自我にとって怖れというのはまたとない栄養源。

 

だから、自我は必死で、不安要素を見つけ出し離さない。

 

そうする事で自我がより強固に存在する事が出来るから。

 

そうなのかも知れません。

 

その様な理屈が分かって、

 

安心出来るなら良いのですが、

 

私は理屈が分かっても心が楽になる訳ではありませんでした。

 

しかし、

 

誰よりそのシステムによって傷つくのは自分自身。

 

この自我のシステムの存在も、

 

何かしらの意味があるのだとは思いますが、

(ないかもしれないけど)

 

あまりにも悲しいシステムです。

 

 

自分で自分を苦しめる悲しいゲームから降りるべく、

 

私なりに「道」を求めました。

 

坐禅や瞑想。

 

思考しないという事。

 

その様な行為をしている時間は、

(正確ではありません)

 

そこから解放されもします。

 

ある一定期間、

 

解放される体験をする事もありました。

 

 

しかし、時間が過ぎれば、

 

恐れのシステムが自然に作動します。

 

私は私なりに真剣に取り組みましたが、

 

未熟さゆえに自我からの解放は起こりませんでした。

 

無の状態に逃げた分、

 

現実は着々と容赦なく時間が進み、

 

退路を絶たれて状況は悪化してる。

 

 

いつまで経っても、

 

恐れの中にある自分を笑うしかありません。

 

 

今に生きる事。

 

私には本当に難しい事です。

 

事に善悪はないのでしょう。

 

意味すらない。

 

世界を正直に見つめると、

 

残念な事にそうであるように感じます。

 

 

 

うわ、暗いな。