わたしからあなたへ

人生は不思議な事で満ちています。運命の出会いと別れを経て2017年11月20日に「ブログかけ!」というお言葉を頂きました。その不思議な物語の第一章を書き終えましたが、不思議な流れは更に力強さを増して、ようやくわたしは真を生きる事を決心しました。わたしもあなたも生きる事を味わい尽くし、善き旅路の果てで出逢いましょう。

喜怒哀楽の「怒」(3)

『あなたへ』   

https://www.instagram.com/p/BjPLTpEFuca/「高所恐怖症」 by Sige

 

 「怒り」は消し去るべき

 

感情(存在)なのだろうか?

 

うーん。

 

私にはどうしても納得出来ない!

 

と思っていた頃、

 

「禅」に出会いました。

 

禅の物語を読むと、

 

なんと、

禅のマスター達は、

 

怒りまくってるではないですか!!

 

大声で叫んだり!

 

突き倒してみたり!

 

殴ってみたり!

 

暴言吐いたり!

 

私は、

 

「やっと見つけたぞ!これだ!!」

 

なんという自由!

 

なんて生き生きとしてるんだ!

 

怒りを排除していない!!

 

と興奮しました。

 

禅は

 

「あれは、だめ」

 

「これは、よし」

 

という裁きから完全に自由でした。

 

分別判断がないのです。

 

そのため、

 

禅のマスター達は、

 

自然の発露のまま、

 

怒り、

 

慈しみが、

 

対立する事なく、

 

見事に調和されていました。

 

怒りは破壊的な暴力ではなく、

 

弟子の目を覚ませるための、

 

限りない愛ゆえなのです。

 

私は俄然、

 

『禅』に魅かれていきました。

 

そして、とどめの、

 

バグワン・シュリ・ラジニーシ

(OSHO)との出会いです。

バグワン・シュリ・ラジニーシ - Wikipedia

バグワン・シュリ・ラジニーシBhagwan Shree Rajneesh、和尚/オショウ;Osho)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家、20世紀の覚者。 21歳の時、ジャバルプールのバンヴァータル庭園にあるモールシュリの木の下で光明(悟り)を得る。【参考文献 未知への扉 めるくまーる】 真理の探究こそ第一の優先事項であり、人は自らの生の源泉を探究することに関心を寄せねばならないと説く。瞑想が始まりでサマディ(悟り)が終着と説く。【参考文献 からっぽの鏡・馬祖 壮神社】

哲学、仏教、禅、神秘主義思想など、あらゆる精神性の題材を取り上げ、その精髄を現代人の為に簡単に説き明かす。その講話録は650冊以上にものぼり、世界50ヵ国以上で翻訳、出版されている。

 

私は当時様々な本を読んで、

 

共感する事も多かったのですが、

 

完全に腑に落ちる事はなく、

 

いつも何か欠いている。

 

バランスが悪い。

 

という想いが拭えませんでした。

 

しかし、

 

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)

 

の言葉は私を完全に黙らせました。

 

この方の本を読んだ時、

 

「ああ、ここに全て書かれている」

 

と思いました。

 

この方以上に美しく、

 

分かりやすく、

 

真理について書かれている

 

言葉に出会った事がありませんでした。

(R5年現在 今はそうは思わない)

 

私はこれほど完成された言葉(文章)を、

 

知った以上、

 

当時の私は、

 

もはや、

 

私が伝える事など、

 

1ミリもない事を確信しました(笑)

 

私が書いたら世界を汚すだけ、

 

そんな風に思ってました。

 

まあ、今書いちゃってますが・・・。

 

すんません…。

 

OSHOは、

 

全てを肯定していました。

 

もちろん「怒り」も。

 

創造と破壊

 

愛と憎しみ

 

どちらか一方ではなく、

 

その両者が必要である事。

 

本当に大切な事は

 

全体生。

 

私も生意気ながら、

 

世界に必要なのは、

 

良いも悪いも

 

神も悪魔も

 

ポジティブもネガティブも

 

全てを包む

 

全体生だと思うのです。

 

最後に

 

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)

 

の言葉をご紹介します。

 

 

朝の講義 

 

天下の人が皆、美を美と知ったとき

そこから醜さが起こる

天下の人が皆,善を善と知ったとき

そこから悪が起こる

つまるところ

有と無は互いに補い合って成長する

両方を使いなさい

選ばないこと

生とは相互依存だ

罪も使ったらいい

それがあるのには目的がある

さもなければ,

そんなものは存在しないはずだ

怒りも使ったらいい

それがあるのには目的がある

さもなければ,

そんなものは存在しないはずだ

何ものも、

目的なしに生の中に存在しないはずだ

どうしてそれが何の目的もなく存在できよう?

生はカオス(混沌)じゃない

生は意味のあるコスモス(秩序宇宙)なのだ

有と無は互いに補い合って成長し

だから、いて同時にいないでごらん

難と易は互いに補い合って完成し

長と短は互いに補い合ってコントラスをかもし

前と後は互いに補い合って結びつく

反対は本当に反対なのではなく給足だということだ

そらを分けないこと

区分けは虚溝だ

それらはひとつなのだ

それらは互いに依存し合う

どうして愛が憎しみなしに存在できよう?

どうして慈しみが怒りなしに存在できよう?

どうして生が死なしに存在できよう?

どうして幸せが不幸せなしに存在できよう?

どうして天国が地獄なしに可能なものか?

地獄は天国の反対じゃない

そのふたつは補い合うものだ

そのふたつは一緒に存在する

実際のところ

それらは同じコインの裏表にほかならないのだ

選ばないこと

両方を楽しみなさい

両方がそこにあるのを許しなさい

そのふたつの間にハーモニーをつくるがいい

選ばないこと

そうすれば

あなたの生は反対同士のもののかもしだす交響楽となるだろう

そして,それこそ可能な限り最も大いなる生なのだ

それは,ある意味では最もあたり前で

ある意味では最も桁はずれだろう

私が「仏陀は空を飛ぷ」と言うのはそこだ

彼には地上部分がない

 

さあ、

 

今日も始まります。

 

悲しみも、喜びも

 

両極を楽しめますように。

 

難しいよね(笑)

 

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