わたしからあなたへ

人生は不思議な事で満ちています。運命の出会いと別れを経て2017年11月20日に「ブログかけ!」というお言葉を頂きました。その不思議な物語の第一章を書き終えましたが、不思議な流れは更に力強さを増して、ようやくわたしは真を生きる事を決心しました。わたしもあなたも生きる事を味わい尽くし、善き旅路の果てで出逢いましょう。

臨済録①

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 「臨済義玄」by曾我蛇足

 

 

禅の師匠である向令孝和尚は、

 

臨済宗 方広寺派 祥光寺のご住職です。

 

臨済宗の祖である臨済については、

 

臨済録という本にまとめられています。

 

臨済(りんざい)とは ?

[生]?
[没]咸通7(866)
中国,唐の禅僧。曹州南華の人。名は義玄,諡は慧照禅師。臨済宗の祖。一説に咸通8 (867) 年生まれ。黄檗希運の法を継ぎ,参禅修行者には厳しいを与え,中国禅宗のなかで臨済宗は最も盛えた。臨済禅の激しさは画題としてもしばしば取り上げられ,その言行は弟子により『臨済録』にまとめられている。                                               

 

私はこの臨済録という本を、

 

師匠の弟子になってから手に取ったのか?

 

はたまた、

 

その以前からすでに手に取ったのかを忘れてしまいましたが、

 

自分にとって、

 

特別に大切で大好きな本です。

 

 

臨済の自由さ激しさ。

 

そして、

 

その自己への徹底的な信頼。

 

それは本来の自己である、

 

「無位の真人」

 

何事にも頼らない力強さ。

 

そして、意外にも修行中の純真さ。

 

 

私はこの本を読むたびに、

 

臨済の突き抜けたカッコ良さに、

 

すっかりやられてしまいます。

 

 

今回、

 

私が特に好きな場面をご紹介したいと思います。

 

 

入矢義孝訳注 岩波文庫

臨済録 行録より引用

 

師、初め黄檗の会下に在って行業純一 なり。

 

首座乃ち歎じて いわく、

 

是れ後生なりと雖も、

 

衆と異なること有り。

 

遂に問う、上座此に在ること多 少の時ぞ。

 

師云く、三年。

 

首座云く、曽って参問するや。

 

師云く、曽っ て参問せず、箇の什にをか問わん。

 

首座云く、汝何ぞ去って堂頭 和尚に 、

 

如何なるか是れ仏法的々の大意と問わざる。

 

師便ち去って問う。

 

声未だ終らざ るに黄檗便ち打つ。

 

師下り来たる。

 

首座云く、問話そもさん。

 

師云く、某甲、問声未だ絶えざるに、

 

和尚便ち打つ、某甲会せず。

 

首座云く、但だ更に去いて問え。

 

 黄檗又打つ。是くの如く三度問うて三度打たる。

 

師来って首座に白して 云く、

 

幸いに慈悲を蒙って某甲をして和尚に問訊せしむ。

 

三度問いを発して三度 打たる。

 

自ら恨む、障縁有って深旨を領ぜざることを。

 

今且らく辞し去らんと。

 

首座云く、汝若し去る時は須らく和尚に辞し去るべし。

 

師、礼拝して退く。

 

首座先に和尚の処に到って云く、

 

問話底の後生、甚だ如法なり。

 

若し来って辞せん時は、

 

方便して彼を接せよ。

 

向後、穿鑿して一株の大樹と成らば、

 

天下の人のために蔭涼 と作り去らんと。

 

師去いて辞す。

 

黄檗云く、別処に往き去ることを得ざれ。

 

汝は高安灘頭の大愚の処に向って去け、

 

必ず汝が為に説かん。

 

 

さて、読めない漢字多いですよね。

 

あ、俺だけですかね(笑)

 

この場面がとても好きなんです。

 

 

え?意味がよく分からない?

 

ああ、そうですよね。

 

ということで、

 

それをやると眠れなくなるので、

 

現代の言葉に変えるのはまた次回・・・