「臨済義玄」by曾我蛇足
入矢義孝訳注 岩波文庫
臨済録 行録より引用 現代語訳
首座「そうか。出かける前に必ず和尚に暇乞いをして行きなさい。」
師が礼拝して退くと、首座は一足先に黄檗のところに行って告げた、
「先ほど参問に来た若者はなかなかまともです。もし暇乞いに来ましたらどうかよろしくお導き下さい。将来きっと鍛えあげて一株の大樹となり、天下の人々のために涼しい木陰を 作るでありましょう。」
師が暇乞い行くと、黄檗は言った、
「そなたはよそへ行くことはならぬ、高安灘頭の大愚のところへ行くがよい。きっとそなたに説いてくれるだろう。」
真理への道を諦めようとしている臨済。
何とか臨済の大成を願い奔走する首座。
この首座の人物も調べてみると、
黄檗の法を継ぐ程の人物であり、
睦州(ぼくしゅう)禅師と呼ばれ、
かなり激しい気風の名僧だった様です。
首座は師の黄檗に、臨済が別れを告げる前に、
彼を正しく導く様にお願いをしに行きます。
そんな事は知らぬ臨済。
臨済は首座の言いつけを守り、
素直に黄檗にお別れの挨拶に行きます。
素直な臨済。
首座の言いつけは全て守ってゆきます。
その素直さが大成への道を切り開いてゆくとは、
当人は知る由もなかったでしょう。
そして、師の黄檗との対面。
師が暇乞い行くと、黄檗は言った、
「そなたはよそへ行くことはならぬ、
高安灘頭の大愚のところへ行くがよい。
きっとそなたに説いてくれるだろう。」
師の黄檗は臨済にとって何が最も良き道なのかを考えたのでしょう。
そして師の黄檗は、あろう事か、
彼を正しく導けるであろう自分以外の師を紹介するのです。
ここがまた凄いと思うのです。
一般的に指導者足る者は、
自分が導く事にある種のプライドを持っていると思うのです。
他の宗派の師の所に行くなど、
裏切り者と捉えられてもおかしくありません。
それを自ら提案するのですから。
しかし、その時代の禅の師達は、
そんな小さなプライドはなかった様です。
修行者が正しく仏法の神髄を理解させる事が、
自分の宗派の興隆を図るより、
最重要という認識を持っていたのでしょう。
この考えは現代の宗教観では在り得ない事だと思います。
目指す過程は異なっても、
目指す場所は同じ。
その認識を宗教者は共通して持っていた。
それが物凄い事だと思うのです。
この事は宗教に関わらず、あらゆる分野で、
現代社会が欠落している事だと思います。
こうして黄檗は現段階の臨済に最も相応しいであろう、
高安灘頭の大愚和尚に会うように命じます。
恐らく、
黄檗は大愚和尚に手紙を書いた事でしょう。
愛の包囲網が完全に張られています(笑)
そして、
黄檗の指示を素直に従う臨済(笑)
よいよ、大愚和尚との対面です。
つづく