このお顔。
この凶悪な笑いとも言える表情。
私が心惹かれてやまない仏像の表情です。
このご尊顔の持ち主はかの有名な、
十一面観音菩薩の正面のご尊顔の真裏にあります。
もちろん、正面のご尊顔は、
慈愛や凛々しさの表情が基本表現されています。
しかし、この真裏に、
凶悪とも言えるご尊顔が配置されている事に、
私は仏教の奥深さや、また知恵を感じます。
これは、迷える衆生を救うための表情なのです。
なんと、複雑。
昔海外の宣教師は憤怒の表情の仏像を見て、
悪魔崇拝と思ったそうです。
浅い!
見た目で判断するとは。
でも、そう見えるよなあ
仏教は本当に面白い。
キリスト教や、神道にはない、
(もちろんイエス様の愛は半端ない)
包容力、多様性、奥深さを、何より、
煩悩にまみれる人間に寄り添い続ける愛を
強く感じます。
最後の最後まで人を見捨てない、
最後の最後まで衆生を救いに行く、
そういった菩薩や如来、明王、天部などの、
誓願には、胸を打たれます。
(誓願:仏・菩薩(ぼさつ)が修行の目的を定め、一切の生物の苦しみを救おうとの願望達成を誓うこと)
それぞれのお働きの物語は大変熱いものがあり、
その仏教の愛に私は感動を覚えます。
さて、十一面観音菩薩。
十一面観音(じゅういちめんかんのん)、梵名エーカダシャムカ (एकदशमुख ekadaśamukha[1])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の1つでもある。頭部に11の顔を持つ菩薩である[1]。梵名は「11の顔」、「11の顔を持つもの」の意。
お名前の通り、この菩薩様には、
11のお顔があります。
もちろんその表情には全て意味があります。
十一面観音はその深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされ、女神のような容姿に造られたものが多い。
多くの十一面観音像は頭部正面に阿弥陀如来(けぶつ)を頂き、頭上には仏面(究極的理想としての悟りの表情)、菩薩面(穏やかな佇まいで善良な衆生に楽を施す、慈悲の表情。慈悲面とも)、瞋怒面(しんぬめん。眉を吊り上げ口を「へ」の字に結び、邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる、憤怒の表情。忿怒面(しんぬめん)とも)、狗牙上出面(くげじょうしゅつめん。結んだ唇の間から牙を現わし、行いの浄らかな衆生を励まして仏道を勧める、讃嘆の表情。牙上出面あるいは白牙上出面とも)、大笑面(だいしょうめん。悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔。暴悪大笑面とも)など、各々に複雑な表情を乗せ、右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている姿であることが多い。この像容は玄奘訳の「十一面神咒心経」に基づくものである。
私は私の中に沢山の人格があるのを感じ続けています。
時に他者から、まことに意味不明ですが、
顔が変わると時々いわれます(6種くらい)。
(娘にも言われます)
菩薩様の慈愛故の様々な人格と比べると、
私の場合、まあマジでロクなもんじゃないですが、
人には相反する人格がある事は自然だと思っています。
そういう多様性のある仏教に私は惹かれます。
私は見た目は、まあ、フツーに見えるのか、
優しそうなのか、エラソーなのか、
よく分かりませんが、
私の中には苛烈な部分や容赦のない部分、
身を滅ぼしても対象に対して、
向かっていき、余裕かましてる表情を、
ぶち壊して泣かしてやりたくなる時があります。
(こわいわ!)
とにかく、私が仏像の表情に惹かれる一つは、
愛とは、本当の優しさとは、
ニコニコ、うんうん、
そのままでいいよ
なんて、甘いもんじゃなくて、
てーめー!
こっちこないとブッ○ろすぞ!
に近いニュアンスも、
あってトーゼンと私は思うタイプなので、
仏像の憤怒の表情に深く共感するのです。
二つ目は、
この悪人すら、
(わたしのこと)
救くおうとしてくれる!
という事を私は知ってるから、
なにかとても安心するのです。
そうなんです!
悪人も本当は止めて欲しいんです。
止められないんです、
自分じゃ。
暴走を!
だから、私の場合には、
常に善人が配置されているのです。
私が暴走しようとすると、
昔から周囲は
優しく止めてくれます!
善人
『出来たらやめた方がいいかもしれないよ』
悪人(おれ)
『うん、わかった、やめよ。』
と素直になれる。
厳しく止められちゃうと、
もっと暴走しちゃうのです。
もっとすごいのみせてやるわ!
と思ってしまう。
(めんどくせー)
という事で、なんの話でしたっけ?
ああ、そう。
仏教って、すごい!
という話にします。
私は飼い犬イセの散歩に行く時に、
歩いて五分かからないところに神社があり、
まあ、しょっちゅう手を合わせてます。
その神社は、
菊理媛尊(くくりひめのみこと)が、
ご祭神の神社です。
その神社の総本社である白山比咩神社の起源において、
泰澄大師は、
十一面観音菩薩からお告げを受けたとされています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。
泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。
霊亀2年(716)、泰澄は夢で、虚空から現われた女神に、「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。
この泰澄というお方もまた凄まじいお人です。
愚者の誉高い私とは大違い。
夢のお告げって、昔からずっとあるんですね。
興味ある方は、また調べてみてください。